みんな大好き映画の日ということで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』行ってきました。今思うと6月27日公開で、いまだに劇場でやってるのってスゴいな。
心地よいストレスなんて存在するのか?
TVシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』はリアルタイムで観ていてファンになり、その後の再放送やDVDとかでも何度も観て、NERV本部でエヴァが発進するときに繰り広げられる「脊髄電動システムを開放」とか「主電源接続完了」とか「思考形態は日本語を基礎言語としてフィックス」とか「ハーモニクスすべて正常値」とかっていうやりとりもカッコ良すぎてメモ取っちゃったりするくらいの勢いなんですが、『新劇場版:序』を経てのこの『新劇場版:破』。
もうヤバいですね、コレ。なんか懐かしさなのか切なさなのか嬉しさなのか、わけのわからないところでジーンと来るものもあって、いったいこの気持ちをどう整理したらいいのか。プログラムの鶴巻監督のインタビューでは、
だから『新劇場版』も「同じものをやり直していること自体が映画になる」みたいな展開にできないかと。物語を変化させること自体が作り手にとってまずストレスであって、劇中の登場人物にとってもストレスであって、それが観ているお客さんたちにもストレスになって......みたいな。その全体の状況含めて「映画」にならないかと。
via: 鶴巻和哉監督
と話しているんだけど、どう気持ちを整理していいのかわからないこのボクの状況は、いわゆるその“ストレス”の部分なのかどうなのか。いや、おそらくそうなんだろう。
あそこまでの変化という意味合いでの『破壊』を目の当たりにさせられると、「何らかの刺激によって生体に生じた歪み」である“ストレス”を感じる人もいるんだろうけど、ここで感じている“ストレス”はそれとはちょっと異なるタイプに思える。
「ありがとう」
もちろんまだ『新劇場版:破』を観てない方は、今すぐこんなページは閉じて劇場へ走って欲しいんですが、この『破』は人と人との繋がり、愛情たっぷりの内容となってます。今までのシンジ、レイ、アスカといったキャラ、もしくはイメージしている各キャラ、新キャラクター・マリをひっくるめての怒濤の展開には“愛情”を感じずにはいられなかった。見終わった直後、心の中では「ありがとう」と呟いてた気がしました(TVシリーズのラストとかは関係なく)。
その“愛情”を多分に含め、108分を通してスクリーンから溢れ出るパワーであったり、「惣流」ではなく「式波」であるアスカであったり、シンジとゲンドウを近づかせようと試みるレイであったり、零号機を食いちぎり頭部を吐き出す使徒であったり、初号機とレイとが融合して始まるサード・インパクトであったり、すべての要素をくみ取っての「ありがとう」だったんだと思う。
結局何を言ってんのかよくわかりませんが、『破』はありがとうで『Q』がとても楽しみです、ということなんだと思います。
comments